- 1. 1 宗教の必要性を認めない
- 2. 2 現実に神や仏がいるとは思わない
- 3. 3 宗教は精神修養にすぎないのではないか
- 4. 4 「さわらぬ神にたたりなし」で、宗教に近づかない方(ほう)がよいと思うが
- 5. 5 現実生活の幸福条件はお金が第一ではないか
- 6. 6 学歴(がくれき)や社会的地位こそ幸福の要件ではないか
- 7. 7 いまが楽しければそれでよいではないか
- 8. 8 宗教は思考をマヒさせ、人間を無知にするのではないか
- 9. 9 宗教が社会に評価(ひょうか)されるのは福祉(ふくし)活動だけではないか
- 10. 10 現実生活をさげすみ、偽善的(ぎぜんてき)態度をとる宗教者がきらいだ
- 11. 11 自己の信念を宗教としている
- 12. 12 宗教を持たなくても幸福な人はたくさんいるのではないか
- 13. 13 人生の幸福とは努力以外にない
- 14. 14 道徳(どうとく)さえ守っていれば宗教の必要はない
- 15. 15 無神論(むしんろん)ではなぜいけないのか
1 宗教の必要性を認めない
宗教を否定し、信仰の必要性を認めないという人の中には、感覚的に信仰を嫌う人もあれば、今までまったく無関心に生きてきたことによって、その必要性に気づかない人もあることでしょう。
しかし、ほとんどの人々は自分なりの信念を持って、日々努力を重ねて自分の一生を生きていけばよいと思っているようです。
たしかに自分の信念と、毎日の努力によって一家をささえ、子供を育て、それなりの財産を築き、社会的な地位を得るということは、尊い一生の仕事であり、これとても、並たいていの努力でできるものではありません。
真実の宗教は、人間の生命を説き明かし、人生に指針を与えるもっとも勝れた教えですから、これを信ずることは仏の正しい教えによって、心の中に秘められた願いを成就し、私たちの持つ信念を、より崇高な信念へと高め、人間性をより豊かに、より充実したものに育くむことになるのです。
たとえば、山の中の小さな谷川をわたるのには、航海術を学ぶ必要はないでしょう。けれども、太平洋などの大海原を渡るには、正しい航路を知り、進路を定め、航海するための知識や技術が、どうしても必要なのです。
私たちの人生にとっても、一生という長い航海には、仏の正しい教えによって航路を正し、自分を見きわめ、真実の幸せな人生という目標に到達するための知識や訓練ともいうべき、正しい信仰と修行が必要なのです。
真実の宗教を持たず、正しい信仰を知らない人は、あたかも航海の知識もなく、進路を見定める羅針盤も持たずに大海原に乗り出した船のように、人生をさまよわなければなりません。
釈尊は涅槃経というお経の中で、信仰のない人のことを、
「主無く、親無く、救無く、護無く、趣無く、貧窮飢困ならん」
と説いています。
すなわち、正しい宗教を持たない人は、仏という人生における根本の師を知らず、もっとも慈愛の深い親を持たず、したがって、仏の救済もなく、護られることもなく、何を目的として生きるのかということを知らず、正法の財宝(功徳)に恵まれない、心の貧しい人だというのです。
さらに長い一生の間には、経済苦や家庭不和や社会不安の影響などによって、深刻な悩みや苦しみが押し寄せてくる時もありましょう。少なくとも病苦・老苦・死苦などは、誰もが必ず直面しなければならないことなのです。
実際に自分がこうした苦悩に遭遇した時のことを想像してみて下さい。はたして本当に自分の信念と努力で、このような悩みや苦しみを乗り越えることができるのでしょうか。少なくとも自分一人の力で、その苦しみのどん底からはい上がり、我が身の不幸を真実の幸せな人生へと転換させることは容易なことではありません。
まして一切の苦悩に打ち勝って、安穏な、しかも行きづまりのない自在の境涯を開拓して生きるなどということは、できるものではありません。
ここに、正しい信仰によっていかなる障魔にも負けない不屈の闘志と、仕事や家庭など人生におけるすべての苦難に打ち勝つ力を養うために、宗教の必要性があるのです。
2 現実に神や仏がいるとは思わない
初めに、神についていいますと、キリスト教やイスラム教で立てる天地創造の神ゴッドやアラーは、予言者と称されるキリストやマホメットが経典に説示しただけのことで、現実にこの地上に姿を現わしたことはありません。
天理教の天理王命や金光教の天地金乃神なども、教祖がある日思いついたように言い出したもので、この世に現われたことはありません。
また神社の中には、天満宮や明治神宮などのように菅原道真とか明治天皇などの歴史上の人物を祭っているところもありますが、これらは偉人を敬慕する感情や時の政治的配慮などによって、人間を神にまで祭りあげてしまっただけのことで、神本来の働きをもっているわけではないのです。
本来、神とは原始的時代の自然崇拝の産物であり、宇宙に存在するさまざまな自然の作用には、それぞれ神秘的な生命すなわち神が宿っているという思想に端を発しています。
したがって真実の神とは、ひとつの人格や個性を指すものではありませんし、神社などに祭られて礼拝の対象となるものでもありません。あくまでもすべての生き物を守り育くむことに神の意義があるのです。この神の力が強ければ人々は平和で豊かに暮らせるわけですが、仏法においては、神の作用は正しい法の功徳を原動力とし、これを法味といい、諸天諸神が正法を味わうとき、仏の威光と法の力を得て善神として人間を守り、社会を護る力を発揮すると説いています。
次に仏についていいますと、仏典に説かれるたくさんの仏や菩薩たちも、ほとんどは歴史的に地上に出現したことはありません。身近なところでは、念仏宗の阿弥陀如来や真言宗の大日如来なども実在したことのない仏です。
ではなぜ架空ともいえる仏や菩薩が経典に説かれたのかというと、インドに出現した釈尊は法界の真理と生命の根源を説き明かすために生命に備わる働きや仏の徳を具象的・擬人的に仏・菩薩の名を付けて表現されたのです。たとえば智慧を文殊菩薩、慈悲を弥勒菩薩、病いを防ぎ、癒やす働きを薬師如来・薬王菩薩、美しい声を妙音菩薩というように、それぞれに名を付けられました。
これらの仏・菩薩は教主である釈尊の力用を示すために説かれたわけですが、釈尊は厳然とインドに誕生され、宇宙の真理を悟り、人々に多くの教えを遺されました。釈尊の出現と経典に説かれる深義に疑いをもつ人はいないでしょう。
この釈尊が究極の教えとして説かれた法華経の中に、末法に出現する本仏を予証されました。その予証とは、法華経を行ずる故に刀や杖あるいは瓦石で迫害されること、悪口罵詈されること、しばしば所払いの難に遭うこと、迫害者の刀が折れて斬ることができないなどのことですが、この予言どおりに、うち続く大難の中で民衆救済のために究極の本法たる文底の法華経を説き、未来永劫の人々のために大御本尊を顕わされた御本仏こそ日蓮大聖人です。
日蓮大聖人はひとりの人間としての人格の上に本仏の境界を現実に示されたのです。
もしあなたが、仏は人間の姿をしたものではなく、金ピカの仏像や大仏そのものと考えて「そのような仏など実在しない」というならば、それはあまりにも幼稚な考えであり、ためにする言い掛りというべきです。
3 宗教は精神修養にすぎないのではないか
精神修養とは、精神を錬磨し品性を養い人格を高めることですが、一般には心を静め精神を集中することをいうようです。
芸術やスポーツなどを通して精神を磨き、人格を高めるならば、それは立派な精神修養です。
数多い宗教のなかには、精神修養の美名を看板にして布教するものがあります。その代表的なものとして禅宗があげられます。
煩雑な毎日に明けくれている現代人にとって、心を静めて精神を集中する機会が少ないためか、管理職者や運動選手の精神統一の場として、あるいは社員教育の場として、座禅が取り入れられ、ブームになっているようです。
では宗教の目的は精神修養にあるのかという点ですが、仏教では、精神を統一し心を定めて動じないことを禅定とか三昧といい、仏道修行のための初歩的な心構えとして教えており、これが仏教の目的でないことはいうまでもありません。
また人格品位の修養についていえば、仏教の中の小乗教では、悪心悪業の原因は煩悩にあり、煩悩を断滅して身も心も正された聖者になることがもっとも大切であると説き、戒律を守り智慧を磨くことを教えました。これを二乗(声聞・縁覚)の教えといいます。しかし大乗教では、自分だけが聖者になっても他を救おうとしないのは狭小な考えであり、思考や感情に誤りのない聖者でも、それだけでは真実の悟りではないと、小乗教を排斥し、自他ともに成仏を目指す菩薩の道を示しました。
そして究極の法華経では、さらに進めて、仏が法を説く目的は、二乗や菩薩になることではなく、一仏乗といって衆生を仏の境界に導くことに尽きるのであると教えられたのです。これを開三顕一(三乗を開いて一仏乗を顕わす)といいます。
もちろん宗教で説く二乗や菩薩の道が直ちに現今の精神修養とまったく同じということではありませんが、少なくとも二乗や菩薩の教えの一部分に人格と品性の向上を計る精神修養の意義が含まれているということができましょう。
釈尊は、
「如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう」
(方便品第二・開結103㌻)
と説かれ、日蓮大聖人も、
「智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき」
(十八円満抄・御書1519㌻)
と仰せられるように、仏法の目的は精神修養などに止まらず、成仏すなわち三世にわたる絶対的な幸福境界の確立にあるのです。
したがって、禅宗などで精神修養を売りものにしていることは、教義的に誤っているだけでなく、仏教本来の目的からも大きな逸脱を犯す結果になっているのです。
4 「さわらぬ神にたたりなし」で、宗教に近づかない方がよいと思うが
「さわらぬ神にたたりなし」」とか「参らぬ仏に罰は当たらぬ」ということわざは、信仰とかかわりを持たなければ、利益も罰も受けることはないとの意味ですが、一般には広くなにごとも近づかなければ無難であるという意味に使われています。
たしかに間違った宗教には近づかない方が無難ですが、こと正しい仏法に対して、このような考えを持つことは誤りです。
釈尊は、
「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。」
(譬喩品第三・開結168㌻)
と説かれ、世の中のすべては仏の所有するところであり、人々はすべて仏の子供であるといわれています。いいかえると、仏法とは文字通り仏が悟られた真理の法則ということであり、私たちは誰ひとりとしてこの真理の法則から逃れることはできません。
仏教では宇宙全体を指して法界といいますが、日蓮大聖人は、
「法界一法として漏るゝ事無き」
(御義口伝・御書1798㌻)
と仰せられ、仏が開悟した法は宇宙法界に漏れなくゆきわたっていると教えられています。
ですから信仰を持たなければ罰も当たらないというのは、警察署に近づかなければ罰せられることもないということと同じで幼稚な理屈であることがわかるでしょう。
もし正しい仏法に近づかなければ、真実の幸福をもたらす教えを知ることができないわけですから、それこそ日々の生活が、仏に背き、法を破る悪業の積み重ねとなっていくのです。
ましてや仏の慈悲は人を救い善導するところにあり、たたりなどあるわけがありませんし、罰といっても、親が我が子を導く手段として叱ることと同じで、それも親の愛情の一分であることを知らなければなりません。
その意味から考えても、罰が当たるから仏法に近づかないというのは、親や教師がうるさいからといってこそこそ逃げ回っている子供と同じことで、およそ健全な人間に育つはずはないのです。
いかに自分では信仰と無縁のつもりでいても、この世に生きている人はすべて、正しい教えによらなければ真の幸福を得られない存在であり、また仏の掌の上で生きていることに違いはないのですから、自らの人生をより爽快なものとし、充実したものとするため一日も早く正しい仏法に帰依することが大切なのです。
5 現実生活の幸福条件はお金が第一ではないか
私たちが日常生活を営むうえで、衣・食・住の全般にわたってお金がたいへん重要で便利な役割を果たしています。物品の価値がお金に換算できることはもちろん、人間や機械の労力・能力そして生命までが金銭で贖われています。
そのためにお金をすべてに先行して価値あるもののように思い、幸福条件の第一に挙げる考えの人は少なくありません。
しかしどんなに貴重なお金であっても、所詮は人間社会によって産み出された〝物〟であり、生活上の手段のひとつにすぎないのです。言い換えれば、生きている人間そのものが主体者で、金銭は人間によって考え出された流通上の約束ごとのひとつであるということです。
これを間違えて、人間がお金に使われたり振り回されるところにとんでもない悲劇が生ずるのです。たとえば、お金をけちけちとためて満足な食事もせず、結局ためたお金を使うことなく餓死した老人がいました。また遺産をめぐる親族間の争いが高じて殺人事件に発展した例、サラ金苦においつめられて殺人や強盗に走る例もあれば、一家心中の例などお金をめぐる悲惨な事件は毎日のように報道されています。これはお金というものが、私たちの生活に大きな比重を占めている証しでもありますし、生死にかかわるほど大きな影響力をもっている証左でもあります。
同時にこれらの事例から、同じお金であってもそれを使う人間によって幸にも不幸にもなることがわかります。
つまり、お金は生活する上に必要なものですが、またお金によって不幸を招くこともあるということなのです。
ここに主体者である人間を確立しなければ、真実にお金も財産も正しく生かされないという道理を知るべきなのです。
日蓮大聖人は、
「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」
(崇峻天皇御書・御書1173㌻)
と仰せられています。
私たちにとって大切な財宝はいくつかありますが、お金などの蔵の財よりも、健康な身体が大切であり、それよりも大切な宝が人間の根本ともなる心の財なのです。
お金は、現代の幸福になる条件のひとつであることに違いはありませんが、それが幸福のすべてではありません。根本にある心の財を正しい信仰によって磨き、福徳に満ちみちた人間になったとき、はじめて蔵の財(お金)にも恵まれ、それを正しく自在に使いこなしていけるのです。
せっかくためたお金や財産を不幸や悲劇の種にするか、幸福の種にするかは、その人の心と福徳によって決まります。
物心両面にわたる幸福な人生を築くためにも、まず正しい仏法に帰依し、信仰に励むことから出発しなければならないことを知るべきでしょう。
6 学歴や社会的地位こそ幸福の要件ではないか
レッテル社会といわれる現代では、より安定した生活を送るためには有名校を卒業して大企業や官公庁に入り、重要ポストにつくことが幸福の要件と考えている人があります。
これについて二点から考えてみましょう。
第一の点は、はたして社会的な地位につくことが幸福の条件なのか、ということです。
最近、四十代、五十代の、いわば社会的に重要な地位にある年代のエリートが、仕事上の行きづまりや人間関係の悩みによってノイローゼになったり、自殺に走るケースが頻繁に起こっています。
現代の熾烈な競争社会の中で責任のある地位につくことは、それだけ大きな負担となり、身心ともに苦労も多くなることは当然です。
ではなぜ人々は苦労の多い地位を望むのでしょうか。その理由は、ひとつには人に負けたくない、人の上に立ちたいという本能的な願望であり、もうひとつには地位が向上すれば経済的に豊かになる、周囲から敬われることなどが挙げられると思います。
とはいえ、もし願いどおりの地位についたとしても、それに適合しない性格であったり、負担に堪える人間的な能力がなければ、その人は苦痛の毎日を送ることになるのです。
第二の点は、学歴至上主義がもたらす弊害と不幸がいかに大きいか、ということです。
たしかに一流大学を卒業した人は、それだけ幼いころから勉学に励んできた努力によって、能力的に優れています。深い学識と幅広い教養による英知はいずこの社会や職場にあっても、知的資源、人的資材として重要視されることは当然でしょう。
しかし誰もが一流校には入れるわけではなく、ごく一にぎりの人だけが許される狭き門を目指して、過酷な受験戦争がくり広げられ、子供は友情を育むどころか、同級生を敵視する状態に追いやられています。
毎年受験シーズンになると受験に失敗して自殺するという悲惨な事件が相つぎますが、幼いころから親や先生の「有名校に入る人は優秀、入れない人は敗北者」という言葉を聞いて育ったならば、受験の失敗がそのまま人生の破滅になると考えるのは当然です。
まさに誤った学歴偏重の風潮が生む不幸の一面であり、その風潮の中で育った子供は、またさらに学歴偏重の人生観を増幅していくのです。
このような教育制度や教育行政のゆがみは教育の部分だけをとり上げて改革しようとしても根本的な解決にはなりません。
なぜならば、教育問題は時代や社会機構全体と深く関わっており、さらには人生観・価値観ともつながっている事柄だからです。
釈尊は現代を予言して、末法は五濁の時代であると喝破されています。五濁とは時代が濁り、社会が乱れ、人間の生命も思想も狂うことを指しており、その原因は誤った宗教にあると説いています。
したがって健全な人生観や社会思想は、ひとりひとりが正しい宗教に帰依し、しかも正法が社会に広く深く定着したときに醸成されるのであり、真実の幸福は表面的な学歴や肩書きによってもたらされるのではなく、真実の仏法を信仰し修行することによってもたらされるのです。
以上の二点だけを取り上げてみても、学歴や社会的地位がそのまま個人の幸福の絶対的条件になるわけでもなく、社会の福祉につながるわけでもないことがわかるでしょう。
真実の幸福とは、いかなる負担や困難をも悠々と解決して乗り越えていくところにあります。
個々の人間に生命力を与え、勇気と希望と智慧をもたらす道は、真実にして最勝の仏法を信仰し修行することに尽きるのです。
身につけた学識と教養、そして大きな責任をもつ社会的な地位、それらをより充実したものとし、より価値あるものとするために、正しい信仰が絶対に必要なことを知るべきです。
7 いまが楽しければそれでよいではないか
「いまが楽しければ」という言葉のひびきには、まったく将来のことを考えず、苦しみを避けて、いまの楽しみばかりを追い求めるというニュアンスが感じられます。
それは、おそらく、若いときの楽しみは若い時にしか味わえないという考えから、オートバイの爆音や、ロックの喧噪のなかに我を忘れ、酒や歌、そしてダンスに陶酔のひとときを過ごす若者たちに共通した考えかたであると思います。
その反面、いまの楽しみより将来の楽しみを目指して、つらさに耐え、少しでも自分のもてる能力や才能を伸ばそうと、懸命な努力を重ねている若者たちも、けっして少なくありません。
安易に目前の快楽のみを求める若者たちの行きかたは、蟻とキリギリスの寓話の教訓をまつまでもなく、苦労を続けながらも真剣に生きている多くの人たちに比べて、あまりにも人間として分別のない、しかも後に必ず苦しみと後悔をともなう生きかたではないかと思います。
だからといって、人間は若いときには何が何でも苦労ばかりをして、楽しみなどを求めてはいけない、というのではありません。
青年の時代こそ、人生を真に楽しんで生きていくための基盤を、しっかりと築き上げる時であると言いたいのです。
「楽しみ」というものの本質について、仏教では、五官から起る欲望を五識によって満たし、意識(心)にここちよく感ずることであると明かしています。
五官とは、眼(視官)・耳(聴官)・鼻(嗅官)・口(味官)・皮膚(触官)をさします。すなわち、眼にあざやかな色形を見る楽しみ、耳にここちよい音や響を聞く楽しみ、鼻にかおりのよいものを嗅ぐ楽しみ、口中の舌においしいものを味わう楽しみ、皮膚(身体)にここちよいものが触れる楽しみを欲するところを五欲といい、五官によって判断することを五識といいます。
要するに、人間の楽しみのほとんどは、この五欲の一つ一つが満たされるか、そのいくつかが同時に満たされるかの度合に応じて起こる、情感であることがわかると思います。
したがって、五欲そのものは、けっして悪いものではありません。しかしそこに、人間の煩悩(貪・瞋・癡などの迷い)が働きかけた時、はじめて五欲は、無謀性を発揮し、欲望の暴走となってあらわれたり、意のままに満たされない不満がつのって、怒りを感じたり、落胆のあまり、自暴自棄になったりして、自分や社会を破壊してしまうことにもなりかねないのです。
五欲とは、ちょうど火のようなものだといえます。火そのものは悪でも善でもありませんが、私たちの使いかた如何によっては、生活に欠かせない便利なものにもなる半面、不始末などがあれば、すべてのものを一瞬のうちに灰燼にしてしまう、ということにたとえられるでしょう。
いわば、一時の快楽を飽きることなく求める若者たちは、煩悩の働きがそれだけ旺盛だともいえましょう。その旺盛な煩悩の猛火をそのまま自分の将来の幸福と社会に役立つ有益な火に転換させるところに、正しい宗教と信仰のもつ大きな意義があるのです。
8 宗教は思考をマヒさせ、人間を無知にするのではないか
宗教を信ずると、その宗教に没頭するあまり冷静な思考能力や批判力、判断力がマヒして、自分なりの理性を持てなくなるのではないか、という危惧をもつ人がいます。
たしかに、なんらの教義をもたない低級な新興宗教をはじめ、数多くの宗教は、たんに忘我の境地や、あきらめることのみを教え、人間の思考能力をマヒさせています。ここに邪な宗教の恐ろしさがあります。
しかし、正しい因果の道理を説く仏教、なかでも法華経の教えにおいては、〝聞思修の三慧〟といって、仏道を成就するためには正法をよく聞き、思惟し、修行しなければならないと説いてます。日蓮大聖人は、
「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず」
(諸法実相抄・御書668㌻)
と教示されるように、正しい教えに則り、修行と研学によって仏法の精神を求めることの大切さを説かれています。
また法華経を持つ者の功徳の姿を示して、
「日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は明鏡に万像を浮かぶるが如く知見するなり。此の明鏡とは法華経なり」
(御義口伝・御書1776㌻)
と説かれています。すなわち正しい仏法を信ずることによって、生命の本源が活動し、物ごとを正しく知見できるというのです。反対に間違った宗教を信ずる者や正しい仏法を持たない者は迷える心、煩悩の生命から物を見、考えているために、すべてを正しく見ることができないのです。まさに本心を失っているようなものです。
これについて、大聖人は、
「本心と云ふは法華経の信心の事なり。失と申すは謗法の人にすかされて、法華経を捨つる心出来するを云ふなり」
(御講聞書・御書1857㌻)
とも説かれています。ここでいう本心とは、世間的な迷いの凡智ではなく、本仏本法によってもたらされる仏智であり、人生においてもっとも大切な真実の幸福を確立する仏界の心を指しているのです。
ですから、真実の仏法とは、本心たる智慧の眼を開かせ、正しい人生を歩ませるための英知を、生命の根源から涌現させるものであることを知るべきでしょう。
9 宗教が社会に評価されるのは福祉活動だけではないか
「福祉」という言葉は、〝幸福〟の意味ですから、広くいえば宗教の目的とも考えられます。しかし、ここでいう「福祉」は、困窮している人に物を恵み、飢えた人に食を与え、不自由な人の手助けとなり、なぐさめるという、一般的な意味であろうと思います。
たしかに極端な個人主義と利己主義によるぎすぎすした現代にあって、他人の幸せを願い福祉活動に奉仕することはきわめて尊いことであり、さらに広く深く社会に定着させてゆかねばなりません。政治や行政の面からも福祉政策を協力に推進してほしいと願わずにはいられません。
しかし宗教の存在価値や目的が福祉活動への奉仕だけであると考えるのは、大いなる誤解です。なぜならば、宗教とりわけ仏法では、正法によって生老病死の四苦を解決し、成仏という確固不動の安穏な境地に至ることを真実の救済とし、本来の目的としているのに対し、一般的な福祉活動はあくまで表面的一時的な救済措置だからです。
またもし宗教の存在価値が、人々に物を与え、不自由な人の手助けをし、悩める人を慰めるだけで事足りるというならば、仏がこの世界に出現し、苦難と迫害の中で身命を賭して法を説く必要があったのでしょうか。私たちも本尊を礼拝し、修行を積み、教義の研鑽をすることもすべて不要となってしまうではありませんか。
真実の宗教とは正しい法を信仰することによって、生命の根源に光をあて、活力にみちた仏の働きを涌きあがらせて、力強い人生を確立することにその目的があるのです。
他人への親切や親への孝養といっても具体的な形態はさまざまです。仏法では人間を深く観達したうえで、孝養に三種ありと次のように説いています。
「孝養に三種あり。衣食を施すを下品とし、父母の意に違わざるを中品とし、功徳を回向するを上品とす」
(十王讃嘆抄・平成校定3―2781㌻)
ここにも、物を与える孝養は下品であり、意にかなうことが中品、仏法によって功徳を回向(自ら修行した果報を他に回らし向かわせること)することがもっとも尊いことであり上品であると明かしています。
物を与え、慰労するところの福祉活動が正しく実践され、持続し、実効を生むためにも、原点となる個々の人間に正しい智慧と活力を与える真実の仏法が必要なのです。
いい換えれば、福祉活動をはじめ文化・社会・教育・政治などの各方面における活動、そして人間がなすすべての営みの基盤となり、根底にあって善導し、活力を与えてゆくのが正しい宗教なのです。
10 現実生活をさげすみ、偽善的態度をとる宗教者がきらいだ
世間の数多い宗教家といわれる人の中には表面はいかにも聖職者らしく、俗界を超越した仙人か生き仏のように振る舞い、世俗の人々を見下した態度をとる人がいます。
とくにキリスト教や戒律を重んずる宗教、新興宗教の教祖と称する人にこの傾向が強いようです。
しかし本当にこの世に生きる身で、世間を超越することなどできるわけがありません。それこそ、〝霞を食って生きる〟ことなどできるわけがないのですから、もし世俗を超越したように振る舞ったり、現実生活を蔑む宗教家がいたならば、その人は明らかに偽善者であり、人々を欺いています。
涅槃経には、末代の僧侶について、
「持律に似像して少く経を読誦し飲食を貪嗜して其の身を長養し、袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐に行くが如く、猫の鼠を伺うが如し」
と説かれています。この意味は、表面は戒律を持ち少々の経を読んでいるが、内心は飲食を貪り、我が身だけを案じていることは、あたかも猟師が獲物をねらって徐行し、猫が鼠を伺っているようなものであるというのです。
また一方においては、表面上のつくろいもなく、はじめから宗教を生活の手段とし、商売人になりきっている宗教家もいます。
この種の人は、自己の修行研学はもちろんのこと民衆救済などまったく眼中にはなく、ただ欲心のみが旺盛な「葬式法事執行業」に堕しているのです。
これらの姿を見れば、宗教家を嫌うのも当然であろうと思います。しかし宗教家の中には堕落しているのもいれば、正法を護持し清潔高邁な人格と慈愛を有する人もいます。一般の在俗の方でも同様に、周囲の信頼と尊敬を集める人とそうでない人がいます。この違いはなにに起因するのでしょうか。
日蓮大聖人は、
「法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊し」
(南条殿御返事・御書1569㌻)
と仰せられ、人の尊卑は受持するところの法の正邪によると説かれています。はじめは正しい心をもった人間でも、信ずるところの法が邪悪であれは、人間性も必ず濁ってしまいます。ですから、もしあなたが偽善的宗教家を忌み嫌うならば、その元凶である邪教悪法を恐れなければならないのです。
結論からいえば、末法という濁悪の現時における真実の本仏は、法華経文底秘沈の大法を所持される日蓮大聖人にほかなりません。
大聖人は、
「日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし」
(一谷入道女房御書・御書830㌻)
と仰せられ、日蓮大聖人こそ、すべての人々を慈しみ、守り、教え導く末法の仏であると明かされています。一切衆生を正道に導かんとする大聖人の慈悲の精神は、歴代の法主上人に受け継がれて日蓮正宗に伝えられています。
日蓮正宗は、小乗教のような戒律宗教でもありませんし、聖人君子になるための宗教でもありません。正宗の僧俗はともに正法たる大御本尊を信受し、行学に励み、真実の平和と福祉社会の実現を目指して日夜精進しているのです。
11 自己の信念を宗教としている
人は誰でもなんらかの信念を持って生きています。それも人生全般に関わる信念もあれば、人生の部分に対する信念もあります。
たとえば「宵越しの金は持たない」という人もいれば、「無駄遣いはしない」という人もいます。また「少々の熱や咳は働いていれば治る」と信じている人もいれば、「少しでも具合が悪ければ医者に行くに限る」という人もいるというように、一人の人間の信念といっても、金銭面・健康面・教育面・職業面などにわたって多種多様です。
しかもそれらの信念は、その時代や環境・年齢などによって変化することも多いのです。
それは人間の心が常に揺れ動くものであり、その心によって生み出される価値観や信念が定まることなく変化するのは当然といえましょう。と同時に私たち凡人の智慧や判断にはおのずから限界があることも当然です。
このような個人的な信念を宗教とする生き方が、はたして正しいのでしょうか。
「宗教」とは、真理を悟り究めた聖者が、人々のために根本の正しい道を説き示して救済することを意味しています。
すなわち、正しい宗教とは法界の真理を悟り究めた仏の教えであり、人生にとって不変の根本原理として、すべての人々を安穏な境界に導くとともに、人間に勇気と希望と活力を与える源泉なのです。
したがって仏の説き示された教えと、個人の不安定な信念とは天地雲泥の異なりがあるわけですし、これを同等に考えることは宗教の意義をまったく理解していないことになります。
個人の信念のみを強調して宗教を否定する人のなかには、「一定の宗教を持つと教義や規則に拘束されて、画一的な人生観や価値観を押しつけられ、人間の個性や自由が奪われるのではないか」と懸念するむきもあるようです。
しかし日蓮正宗の教えは、あたかもさまざまな草木や花をすべて育て養う大地のように、ひとりひとりの個性や信念を超えて、それぞれの人生を開発し、開花させるものであり、けっして画一的な価値観や思想を押しつけるものではありません。
現実に日蓮正宗を信仰する人々は、家庭や職業・年齢・地域などによってそれぞれ異なった信念のもとで生活しておりますし、個性も抑圧されるどころか、信仰に培われて、より健全に伸び伸びと発揮しつつ社会の中で活躍しています。
また日ごろはそれほど信念について固執したり深く考えているわけでもないのに、こと宗教や信仰の議論になると、とたんに取って付けたように「自分は信念を宗教にしている」などと理屈を並べる人もいるようです。
いずれにせよ私たちの能力には限界があり、性格的なくせもあれば欠点もあって、けっして完全ではありません。時には思い違いや人生を狂わせる考えに陥ることもありましょう。
あなたの信念をより正しく充実させ、しかも人生のうえでりっぱに結実させるためには、主体者であるあなた自身が大地のごとき正しい仏法に帰依し、信仰に励むことが絶対に必要なのです。
12 宗教を持たなくても幸福な人はたくさんいるのではないか
幸福という概念は、人によっていろいろなとらえかたがあるようです。一般には、健康とか、家庭円満とか、金銭的に恵まれているといったように、いわゆる、運がよく幸せなことや、心が満ちたりて楽しい状態にあることを指して幸福というようです。
しかし実際に今、健康に、家庭円満に、そして裕福に見える人たちが、必ずしもそれらに満足して楽しく生活してるとはいえない場合が多いのではないでしょうか。
むしろ、「珍膳も毎日食えば甘からず」とか「欲に頂なし」といわれるように、かえって、恵まれた生活に生ずる特有の倦怠や不平不満、欲望のぶつかりあいによる人間不信や争いなど、さまざまな不幸に苦しんでいるという例も、少なからずあるのです。
まれに、現在の恵まれた生活に満足している人があったとしても、人生の無常からは、どのような人もけっして逃れることはできません。
人生の無常とは、生あるものは死に、若きものは老い、健やかなるものも患うなど、一切のものは生滅し変化して、しばらくも同じ姿を保つことができないとの意味です。
仏典には、カピラ城の太子として、優れた身体を持ち、あらゆる栄華につつまれて暮らしていた釈尊が、そのすべてを捨てて出家し、さまざまな修行のすえ、三十歳の時、菩提樹の下で、ついに人生無常の苦を真に解決する法を、悟られたと説かれています。
したがって、この世に人生無常の苦を真に解決して、生滅・変化に惑わされることなく、いかなる幸せをも自在に顕現していく道は、正しい仏法に帰依すること以外にはないのです。
それでもなお、あなたは「宗教をもたなくても幸福な人はたくさんいる」というのでしょうか。
それはまさしく「三重の楼の喩」(百喩経第十)に説かれる「富みて愚の人」と変わるところがありません。
そのたとえとは、「あるとき、彼は他の富豪の屋敷が立派な三階建てであるのを見て、自分もそれにまさる建物を建てようと思い、すぐさま大工さんを呼んで頼んだのです。
さっそく基礎工事をして、一階を作り始めた大工さんに、不審を感じた愚かな富豪は「私は三階だけがほしいのだ、下の一、二階はいらないのだ」と言い張って、「一階をつくらずに二階はできないし、二階をつくらずに三階はできない」という大工さんの言い分を、最後まで聞かなかった」という話です。
正しい宗教を持たない人の幸福は、この愚かな富豪の考えと、同じようなものといっても過言ではありません。
しっかりとした土台の上にある建物は、どのような風にあたっても壊されることがないように、正しい宗教を人生の基礎とし・土台としたときには、いかなる無常の苦しみや不幸という風にも、けっして壊されることのない幸福を築いていけるのです。
このように、人生における確固不動の真の幸福は、正しい宗教を正しく信仰することによってのみ、もたらされるのです。
13 人生の幸福とは努力以外にない
人生にとって、努力はきわめて大切なものです。なんの努力もせずに、幸せな人生を築けるはずはありません。
しかしながら、努力といっても、ただ自分の思いつきで、がむしゃらに何事にも挑戦さえすればよいというものではありません。
たとえば、これから書道を習おうとするとき、立派な先生について、修練と努力を重ねる人は、着実に進歩することでしょう。
しかし、師を求めず、自分の才能と、自分の信念で努力さえすればよいといって、ただ毎日書きなぐっているだけでは、上達することはできません。
このように、その努力をより価値あるものに実らせるためには、良き指導者の正しい教導に従って努力してこそかなうのです。
ましてや意義ある人生、幸せな家庭、人生の充実した喜びを持つためには、その基本となる人生についての、最大にして最高の指導者である仏の教導に触れるということが大切です。
私たちは人生の土台となる根もとに、真実の師である仏の教えを持ち、その上に幹となる自分自身の人格と人間性を磨きつつ、努力と精進を重ねる時、はじめて緑したたる大樹へと成長するのです。
日蓮大聖人は、
「蒼蠅驥尾に附して万里を渡り、碧蘿松頭に懸かりて千尋を延ぶ」
(立正安国論・御書243㌻)
と仰せられています。すなわち、青ばえのような小さな虫でも、駿馬の尾につくことによって万里を馳せ、つる草も松の大木にかかることによって、天高くのびていくことができるのです。
このように私たちもいかなる道を歩もうとも、正しい信仰を根本として努力を重ねるならば、正法の功力によって福徳の花が咲き、その努力が大きな実を結び、真実の幸せな生涯をまっとうすることができるのです。
14 道徳さえ守っていれば宗教の必要はない
道徳とは現実の社会に、善良な人間として生きて行くために、みずからを律し、たがいに守るべき社会的な規範をいいます。
したがって社会生活上の正と不正・善と悪などの分別を心得て、みずからの良心にも、社会的な規範にも恥じることのないように生活してゆくことが大切です。
しかし、道徳はあくまでも、現実に生きている人間のいちおうの規範であって、それによって、先祖を救い、みずからの罪障を消滅し、さらには未来の子孫の幸せをもたらすなどという力はありません。
つまり道徳は、今世に生きる人々の生活を正し、人間性を高める意味での指針とはなりえても、仏教のように、過去・現在・未来の三世の因果を説かず、三世にわたる一切の人々の救済とはなりえません。
日蓮大聖人は道徳と仏教の関係について、
「王臣を教へて尊卑をさだめ、父母を教へて孝の高きことをしらしめ、師匠を教へて帰依をしらしむ」
(開目抄・御書524㌻)
と仰せになって、道徳は仏法の先がけとして、その序分の役割をはたすものだと記されています。
昔から人の守るべき道徳の一つとして、「孝養」ということがよくいわれます。自分を生み、今日まで育ててくれた両親に対して、よく仕え、その恩に報いることは大切なことです。しかし、仏法における孝養とは、ただ親の言葉にしたがい、親にものを贈ったり、年老いた両親の面倒をみるということにとどまらず、正法の功徳によって、両親を始めとする一家・一族・一門の人々を、皆ともに救っていくというところにきわまるのです。
したがって仏法では正法による孝養を、「上品の供養」(もっとも勝れた供養)と名づけるのに対し、道徳における一般的な孝養は、いわば「下品の供養」(上・中より下位の供養)にあたるとされています。
大聖人は、
「法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給ふ(中略)『願はくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん』」
(盂蘭盆御書・御書1377㌻)
と、正法を行ずる大善こそ、自ら仏の境地に至るのみならず無量生の父母と、無量生の子孫を救う道だと教えられています。
このように正しい信仰をとおして自分を磨き、さらに世の中の人々を教化して、正法の功徳を社会の一切の人々に及ぼし、ともどもに仏道を成就することが、最高最善の生き方となるのです。
15 無神論ではなぜいけないのか
無神論とは、信仰の対象となる神や仏などの絶対的存在の事実と可能性を否定する考えで、「無信論」と書く場合もあります。無信論といっても、信用とか信頼などの日常生活上の心理作用まで否定するのではなく、あくまでも宗教的な絶対者、あるいは絶対力の存在を認めないということです。
また無神論者の中には、いちおう他人の信仰を認めて、「神や仏は、いると思う人にとって存在するが、いないと思う者に存在しないものだ」と唯心的な主張をする人もいます。
たしかに、ほとんどの宗教で説く神や仏は現実にこの世に出現したこともなく、因果の道理に外れた空想の産物ですから、無神論を唱えることも無理からぬことかもしれません。
これに関して面白い話があります。あるキリスト教の教会で、全智全能の神について語り終えた牧師に向かって、ひとりの少年が尋ねました。「何でも可能な全智全能の神様は、自分で持ち上げられない石を造れますか」と。牧師は返答に窮して口を閉じてしまったということです。
この話は、現実を離れ空想によって生み出された神が、いかに矛盾にみちたものであるかを、短い中に鋭く指摘しています。
しかし、だからといって無神論が正しいということではありません。無神論者と称する人は、神や仏がまったく存在しないことを立証できるのでしょうか。少なくとも仏教に耳を傾け、仏典を繙いたことがあるでしょうか。
もしあなたが自らの狭小な体験や臆測をもって、無神論を主張するならば、それはあまりにも単純な発想であり、甚だしい無認識の評価であるといわざるをえません。
今、参考までに仏教の概要を説明しますと、仏教は今から三千年ほど前、インドに出現した釈尊によって説かれました。釈尊は当時流行していた超現実的な絶対神を立てる宗教を邪義として排斥し、自らの修行と思索によって悟り究めた法を五十年間にわたって諄々と説き、その最後に究極の実教たる法華経を宣説されました。その教えは、因果の理法を基底として、法界の真理と人間生命の実相を開示するものであり、衆生が生老病死の四苦を根本的に解決して真実の幸福境界に至ることを目的としたものでした。そして法華経に予証されたとおりに末法の御本仏が日本に日蓮大聖人として出現されたのです。
日蓮大聖人は末法万年の衆生の苦しみをのぞき、幸せを与えるために、心血を注いで多くの教えを遺すとともに、一切衆生成仏の法体として大御本尊を図顕されました。
この大聖人の仏法は、経文に照らし合わせ(文証)、因果律や現実の道理に照らし(理証)、実際に信仰した結果を見ても(現証)、一点の曇りもないもっとも正しい教えであることが立証できるのです。
もしあなたが、仏の悟りや御本尊の功徳力を信じられないというならば、謙虚に仏法の教えを乞い、自ら仏道を求めるべきでありましょう。
日蓮大聖人の仏法が七百年間、厳然と存在し、全世界にわたる多くの人々に生きる力と、喜びを与えていることはまぎれもない事実です。
この事実に目をつぶって、「この世に神や仏などあるはずがない、信じたくない」と無神論に固執するならば、それは、精神異常者のような精神構造というべきです。
大聖人は、無信・無行の者に対して、
「謗と云ふは但口を以て誹り、心を以て謗るのみ謗には非ず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり」
(戒体即身成仏義・御書10㌻)
と仰せられ、法華経を信仰しない者は、仏をそしり正法に背く大罪であると、固く戒められているのです。