- 1. 1 信仰と名のつくものはなんであろうときらいだ
- 2. 2 信仰は理性をマヒさせるアヘンのようなものではないか
- 3. 3 信仰はもうこりごりだ
- 4. 4 宗教によらなくても、自分で幸福だと思えばよいのではないか
- 5. 5 信仰は意志の弱い人間のすることだ
- 6. 6 信仰を求めるのは病人や貧乏人ばかりではないか
- 7. 7 信仰は本人の自由意志によるべきで、他人に強要することはよくない
- 8. 8 自分は忙しくて時間がないので信仰ができない
- 9. 9 信仰は老人がするものではないのか
- 10. 10 信仰をしていても悪い人がいるのではないか
- 11. 11 宗教は狂信、盲信のすすめではないか
- 12. 12 現在げんざいは信仰するほどの悩みはない、いまの生活で満足だ
- 13. 13 利益や罰はその人の心の持ち方によるのであって、客観的にあるものではない
- 14. 14 信仰をしなくても立派な人がいるではないか
- 15. 15 信仰はなぜ必要なのか
1 信仰と名のつくものはなんであろうときらいだ
幼児の頃は誰でも、善悪や他人の評価などにとらわれず、好きかきらいかという自分本位の感情で判断し、笑ったり泣いたりします。しかしその幼児も成長し、責任ある社会人になると、好き嫌いの感情による判断だけでなく、理性による判断、つまり物事の道理や善悪・利害などを考えて行動するようになります。人間誰しも好ききらいの感情は生まれながらに持っており、どんな人でも好きになれない食物や飲物は必ずあるでしょうし、一般に〝医者嫌い〟を自称する人も多いようです。しかし、医者がきらいだといっても、健康を損ねたり生命にかかわるケガをしたときは、身体を守るために医者にかからなければなりません。
私たちの周囲には、好ききらいで判断してよいことと、その反対に、さきほどの医者ぎらいのたとえのように、理性で正邪・善悪・得失・用否などを決定しなければならないときがあるわけです。
これをとり違えて用いたり、すべて好ききらいの感情で判断することは、きわめて幼稚な行動であり、危険なことでもあります。
もし、信仰が趣味や道楽あるいは一種の友好活動にすぎないものならば、好きかきらいかで判断し、きらいな人は近づかなければよいわけです。しかし、正しい宗教とは、苦悩に直面している人に対してはもちろんのこと、それ以外の、特別の悩みがないという人に対しても、正しい生命観・人生観に立脚した真実の幸福を獲得する道を説いています。この正しい宗教を信仰することによって、私たちは個々の生命力をより生き生きと蘇生させ、人生を力強く充実したものに変えることができるのです。
人生を木に譬えるならば、正しい信仰は根幹に当たるといえるでしょう。なぜなら正しい信仰が、人生の根源の力になるからです。
ですから、信仰を単に好ききらいで決めることは、自分の人生の根本を感情で決定することであり、賢明な方法ではありません。
私たちの人生は、いつ、どこで幕を閉じるかわかりません。また、自分の真実の幸福は、家族や周囲の人々へ、そして社会の幸せにも通じていくのです。今日一日を正しい信仰によって生活することは、あたかも羅針盤を備えた船のように、幸福という目標に向かって正しく前進することになるのです。
どうか好ききらいにとらわれず、真実の仏法に耳を傾けて信仰が必要なことを知ってください。
素直な心で仏の教えに触れるとき、あなたは人生でもっとも大切な宝を、今まで忘れていたことを痛感するでしょう。
2 信仰は理性をマヒさせるアヘンのようなものではないか
「宗教はアヘンだ」と言ったのは、かの有名なマルクスです。彼は、当時の退廃的なキリスト教の姿を見て、宗教は人間にとって現実的な矛盾の解決になるものではなく、むしろ現実から目をそむけさせて、仮りに一時的な心の安らぎを与えているにすぎないと指摘したのです。
宗教とは、本来一個の人間がいかに生きるかというところに、その目的があるのですが、中世のキリスト教を初めとする過去の宗教の歴史では、むしろ、宗教のために個人が翻弄されてきたというのが事実です。宗教のために人が翻弄された時ほど、悲惨なことはありません。そこではすべての人間性と理性は神の名のもとに否定され、人間は神の奴隷でしかなかったのです。マルクスが「宗教はアヘンだ」と言ったのは、このような暗い、人間性を無視した宗教を指したものでした。
キリスト教に限らず教条主義的な宗教は、あらゆることを神の言葉に服従することだけを強調して、善良な信徒の理性をマヒさせるものなのです。
しかし、すべての宗教が同様であるということではありません。正しい法義と正しい本尊を説き明し、ひとりひとりの人間の生命力を蘇生させ力強く人生を開拓し、真の幸せな境涯を築くという、宗教本来の目的を説き続けてきた唯一の宗教があります。
それが日蓮大聖人の仏法です。
大聖人は、
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ。『一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず』」
(檀越某御返事・御書1220㌻)
と説かれています。
すなわち、仏法とは世間法とかけ離れたものではなく、治生産業に励み、よき人材となって成長していくことを目的としているのです。
日蓮大聖人の仏法を持つ者は、この精神を根本として、社会の中にあっても積極的に行動し、あらゆる分野で活躍しています。
人生は、幸・不幸・悲・喜こもごもです。しかし、大聖人の仏法を信心する者は、たとえ逆境の中にあっても、信仰の功徳によって、苦難にも勇敢に立ち向かい、諸難を乗り越えていけるのです。
真実の宗教は、人間の意識を消極的にするものではなく、むしろ、信心の力によって不幸をも克服する強い生命力を発揮させ、積極的に生きる力を育くむものなのです。弱い人間が信仰に逃避して、つかの間の安らぎを求める、というようなものではけっしてありません。
アヘンのごとき邪教にまどわされることなく、求道の心を開き、勇気を持って真実の正法に帰依し、その良薬を口に含み、正法を味わうときにこそ、真の人生のはつらとした生き甲斐を見い出すことができるのです。
3 信仰はもうこりごりだ
現在、日本にはおよそ500の宗教団体があります。
そのなかには、古い歴史と伝統をもつ宗教から、最近生まれた宗教まで、多種多様です。そして、歴史を誇る宗教は、その伝統と古めかしい教義を説き、また各種の新興宗教は、それぞれの人の耳目を惑わすような、小さな通力や利益を説いて、一人でも多くの人を引きつけようと懸命です。
「信仰はもうこりごりだ」という人は、これらの宗教に一度ならず足を踏み入れ、そのつど、願いも叶わずむなしい思いを味わった人であろうと思います。
宗教は人の心と生活の全体に影響を持つものですから、一歩まちがえて邪教にのめり込んだら、どんなに立派な志を立てても、その結果は逆になってしまうのです。
しかも、邪な宗教に一度落ち込んだら、なかなかはい上がることができません。なによりも恐ろしいことは、悲惨なその姿に、本人自身がいまだに何も気付かず、不幸だとも思っていないことです。
このように、個人の理性をマヒさせるのが、邪教のもっとも恐ろしいところなのです。
今も非常に多くの人々が、その麻薬のような利益に執着して、抜けられないでいるのですが、何とかしてそこから抜け出た人が、二度と宗教には足を踏み入れたくないと思うのは、当然でしょう。
しかし、だからといって、真実の宗教も邪な宗教も、十把一からげにして、すべてを否定することは、あまりにも軽率に過ぎます。
それは、あたかも一部の警察官の不祥事をもってすべての警察官がそうだと決めつけたり、何人かの悪徳医者がいたからといって、それですべての医者を悪徳呼ばわりし、医者を拒否する愚に似ています。
日蓮大聖人は、
「人路をつくる、路に迷ふ者あり、作る者の罪となるべしや」
(撰時抄・御書835㌻)
と仰せられています。過去にあなたが邪な宗教にとらわれ、欺かれてきた原因は、あなたに正法正義を選択する力がなかったからなのです。ですから邪教に惑わされた自らの不明を顧みて、真実の宗教と邪教とを識別する方途を知る必要があります。
大聖人は、宗教の正邪浅深を知る物差として、
「法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」
(唱法華題目抄・御書233㌻)
と教えられています。
つまり、仏法の正邪は、耳目を惑わすような通力によって決めてはならない。あくまでも、人々を救済できる道理と働きと力を教え授ける法門によって決めなさい、と説かれています。
さらに大聖人は、
「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」
(三三藏祈雨事・御書874㌻)
と説かれています。
すなわち、正しい仏法を判定するためには、正しい救済の道理と、明確な仏の文証と、実際の功徳の現証に裏付けられていなければならないと説かれています。
この三証(文証・理証・現証)によって裏付けられ、いかなる時代の人々の理性と常識にも充分対応し、真実に人を救う力のある宗教が、日蓮正宗として現実に存在するのですから、「もうこりごりだ」などと言って逃げていては、ほんとうの幸せをつかむことはできません。
4 宗教によらなくても、自分で幸福だと思えばよいのではないか
一般に、どのような境遇にあっても、人間の幸不幸は所詮その人の心の持ち方・考え方によって決定されるのだから、宗教に頼るよりも、心に〝自分は幸せだ〟と思うことが大切である、という考え方があります。
このような考え方は、一見もっとものようですが、現実的には人間本来の「心」を知らない理想論であり、これを実行するとなると危険がともないます。なぜかといいますと、私たちの心は時にふれ、折にふれて、ある時は喜び、ある時は悲しみ、怒り、そして安らぐというようにさまざまに変化します。その変化は心だけでなく、顔つきや態度に現われます。なぜ私たちの心がさまざまに変化するのかといいますと、周囲の環境世界(これを縁といいます)に触れることによって、私たちの生命(身心両面にわたる人間全体の働き)に、本来潜在的に具えている十界三千といわれるさまざまな働きの一部分が瞬間瞬間に反応するからなのです。
私たちの内なる心と外界を結ぶ窓口が眼耳鼻舌身の五根です。外界の色彩や物質は眼根を通して心に伝えられます。音は耳根により、香りは鼻、味は舌、冷暖・柔剛などは身体の皮膚感覚によって心に伝達されます。これらの情報を受けた心(意根)は、これを識別して好悪・喜怒などの反応を生ずるわけです。
人間は自分の心に適ったり満足した時に幸福を感じますし、反対にきらいなことが続いたり、不快なことが直接我が身にふりかかった時に不幸を感じます。これは人間として本能的なものであり、きわめて当然のことです。
それを「どのような場合でも幸福を感じ続けよ」と心に強制することは、あたかも身に危険を感じても安全だと思えということと同じであり、黒いものを見て白いと思えということと同じです。このようなことは現実に、正常な人ができるわけがありません。「心」は目に見えませんが、肉体と同様に疲労や倦怠もあれば許容の限界もあるのです。もし身体を鍛えていない病人に、いきなり何十キロもある荷物を背負わせたとしたらどうでしょう。おそらく立つことはおろか、大けがをしてしまうでしょう。同じように心の鍛錬・修行を積んでいない人に対して、「どのような境遇にあっても、いかなる縁に接しても、自分は幸福だと思わなければいけない」と強要することは、極度の心理的重圧を加えることになり、ついには二重人格や精神分裂症などを引き起こすことにもなりかねません。
このような、人間生命の本質を知らない誤った幸福感は、一個人の主義・主張にとどまらず宗教の教義の中にも見られます。その一例を挙げますと、〝心によって病気が起きるのだから、治ったと思えば病気が治る〟と説く「生長の家」や、〝汝の敵を愛せよ〟などと矛盾した美辞麗句を並べる「キリスト教」があります。
これらは、宗教本来の利益によって現実に救済する力もなく、衆生を加護する力もなく、単に衆生に対して〝思いこみ〟を押しつけているだけの宗教といわざるをえません。
これに対して真実の宗教とは、宇宙法界の現証と真理のすべてを達観した本仏によって説き示された教えであり、広大な功徳力を具えた本尊を信じ、修行を積むことによって、清浄にして不動の心(法身)を発揮し、深い智慧と慈愛にみちた人間性(般若)を開発し、人生を自由自在に遊楽(解脱)させる働きがあるのです。このことを日蓮大聖人は、
「法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じ云々」
(当体義抄・御書694㌻)
と仰せられています。
真実の幸福とは、観念的な〝思いこみ〟や〝ひとりよがり〟ではなく、正しい本尊によって自己の内面から健全な生命を涌現させ、修行によって深い智慧と苦難を克服する心を養い、仏力・法力によって守護される安心立命の境界をいうのです。
何物にもくずされない絶対的幸福、それは正しい宗教によってはじめて得られることをよく知るべきです。
5 信仰は意志の弱い人間のすることだ
意志の強い人とは、ひとつの目的に向かって、種々の障害があろうとも、それを乗り越えて行く努力ができる人のことをいい、目的に向かうことは同じでも、途中で挫折してしまったり、またひとつのことに長続きしない、移り気な人が意志の弱い人といえると思います。
しかし、目的の違いや環境の違いによって難易の度合いもありますから、いちがいに、あの人は意志の強い人、弱い人と決めつけるわけにはいきません。
また、意志が強いと思っている人であっても、人の心というものは常に変化してゆくものです。周囲の環境の変化によって変わってゆくのが、人間の心なのです。
したがって、その変わりやすい自分の心を中心として、その心の変化のままに思い思いに行動してゆくならば、それは、ちょうど羅針盤のない船のように、どこへ行きつくのか見当もつきません。常に右往左往していなければなりません。
日蓮大聖人は、
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」
(曽谷入道殿御返事・御書794㌻)
と、自分の心をすべての依りどころの基盤とするものではなく、正しい教法を心の師として、弱い自分に打ち勝つべきであると教えています。
なかには、何事に対しても消極的で、常に何かに頼っていこうとする人がたまたま宗教に救いを求める姿をとらえて、「信仰は意志の弱い人間のすることだ」という人もいます。
しかし、たとえ意志が弱いといわれるような人であっても、真実の宗教である大聖人の教えによって種々の困難を克服していくならば、これほどすばらしい人間改革の道はありません。
事実、意志の弱さや、病魔や、さまざまな宿業による困難を、妙法の信仰によって乗りこえた体験を持った人たちが、現在社会のあらゆる分野で活躍し、大聖人の仏法によって、大きくその境涯を開いています。
このような現実社会の中で人材として蘇生していく姿こそ偉大な仏法の力を証明するものであり、信仰は意志の弱い人間がすることだときめつけるのは、とんでもない誤りです。
6 信仰を求めるのは病人や貧乏人ばかりではないか
仏法は、人間が本質的に直面しなければならない苦悩を解決するために説き明かされたものですから、苦しみ悩む人が救いを求めて信仰に入ることは当然のことです。
信仰を求める動機は、主として直接的に日常生活の支障となる病気や経済苦が挙げられますが、そのほかに最近では子供の教育問題や職場の人間関係、家庭不和、将来への不安なども多くなっています。
人間は誰でも、苦しみや困難にあったとき、はじめてその原因を考え、よりよい解決方法と再び失敗しない方法について、思いめぐらすのではないでしょうか。
事実、自分はこれでよしと思って進んできたが、その結果が思わしくなく、さまざまな問題が起きて身動きができなくなって、はじめて我が身をふり返り、自己の信念や努力だけでなく、人生の土台として正しい信仰が必要であったことに気付いたという人も多いのです。
また、日蓮大聖人は、
「病によりて道心はおこり候か」
(妙心尼御前御返事・御書900㌻)
と仰せられ、病苦が信仰心を起す原因になるとも説かれています。
しかし、入信の動機がいずれにせよ、それによって正しい教えにめぐり会い、正境(正しい本尊)に縁することに重大な意義があるのです。
妙楽大師は、
「縦使、発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳なお多し」
(聖典833㌻)
と、発心の動機がどうであっても、正境に縁することが大きな功徳になると説いています。
入信する時の一面だけを見て、やれ病人だ貧乏人ばかりだ、と非難することは、仏法の功徳力を知らない者の愚かな行為といわざるをえません。
大切なことは、いかに多くの人が正しい仏法によって病苦や経済苦を克服し、力強い人生を築いているかという現実を知ることであり、いかなる境遇の人も必ず幸せになっていく日蓮大聖人の仏法が存在していることを知るべきです。
大聖人は、
「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき」
(経王殿御返事・御書685㌻)
と仰せられています。
さらに法華経には、
「無上の宝聚を求めざるに自ら得たり」
(信解品第四・開結199㌻)
と説かれています。これは無上の宝である成仏の境界は自ら意識して求めずとも、正境に縁することによって自然に得られるというのです。また伝教大師は、正法を信じ行ずる道心こそ真実の国の宝であると讃えています。
この道心の動機が病気であっても、経済苦であっても、なんら恥ずべきことではありません。むしろ自他ともに幸福を得るための大切な入り口ともなるのです。
7 信仰は本人の自由意志によるべきで、他人に強要することはよくない
たしかに信仰は他人に強要すべきものではありません。また、他人に強要されてできるものでもありません。
日蓮正宗でいうところの折伏とは、人に信仰を強要することではなく、日蓮大聖人の教えの尊さと、自ら体得した信心の感動を、一人でも多くの人に語り伝え、喜びを分ち与えたいと思う慈悲心の発露なのです。
たとえば、病気の子供が苦いからといって薬を飲まない時、親はそのままにしておくでしょうか。無理をしてでもその子に薬を飲ませるのではないでしょうか。
折伏とは、まさにこれと同じです。なぜなら、日蓮大聖人の仏法は、大良薬に譬えられ、人間が生きてゆくための真理が説かれているからです。
真実の仏法を知らない人は人生の真の目的を知ることもなく、正法の功徳を受けることもできず、無味乾燥の一生を虚しく送ることになります。
そのようなことのないよう、真実の仏法を一人でも多くの人に伝えたいと思う慈悲の心が、折伏という行動として現われてくるのです。
また、親なればこそ、我が子にやっていいことと、やってはいけないこととを厳しくしつけるように、折伏とは正邪のけじめを正しい仏の教導にしたがって諭し示すことでもあります。
ですから、折伏は人に信仰を強要することではなく、人生の真理を伝え、喜びを共に分かちあいたいという大きな慈悲行なのです。
8 自分は忙しくて時間がないので信仰ができない
現代はたしかに忙しい時代です。いまや国民のすべてが時間との闘いにあけくれているといっても過言ではありません。
駅の売店で牛乳とパンを流し込んで会社に急ぐサラリーマンや、何秒と違わない先を急ぎ、無理な追い越しのために死亡事故を引き起こしている車社会の様相などは、まさに時間地獄とでもいいたいほどです。
また、家事・育児のほかにパートで働く主婦、学校が終わるや学習塾に走る子供たち、定年後も生活のために働く老人など、あらゆる人々が働きバチのように目まぐるしく、時間に追われるように生活しているのが現実です。
これは、誰もが現代社会の中でよりよい生活を求め、社会のスピードに遅れまいとする心の表れといえましょう。
しかし、どんなに忙しい人でもまったく睡眠をとらないわけではないでしょうし、食事の時間や新聞を読む時間ぐらいはあるはずです。
たいていの人は「忙しい忙しい」といいながら、友だちとのおしゃべりや晩酌、テレビなどで一時間や二時間を費やしているのではないでしょうか。
これは本当に時間がないのではなく、心にゆとりがないということであり、忙しいと感ずるかどうかは、その人の身体と心の許容量の問題であるといえましょう。
ですから「時間はできるものではない、時間は自ら作るものだ」という言葉も、自分自身の心にゆとりを持つことを教えているのです。
もし、身心の許容量が小さく、通常の生活で精いっぱいの人や、仕事と家庭以外には手が回らないという人がいたならば、このような人こそ仏法によって色心(肉体と精神)両面を錬磨し、力強い生命力と豊かな人間性をとり戻す必要があります。
また、もし本当に寝る時間もないほど忙しい人がいるならば、その人は自分の苦労や努力がはたして正しい方向にすすんでいるのかどうかを考えるべきです。
せっかく身を粉にして努力しているのに、正しい人生設計も明確な目的も持たないならば、「骨折り損のくたびれ儲け」になってしまいます。
人間としてもっとも大切な大目的を教え、人生のもっとも正しいあり方、考え方を説き示したものが、仏法です。この仏法を信じ行ずることによって、自分の生命の中に英知と力が備わってくるのです。
たとえていえば、間違いのない標識と、どんな悪路や坂道でも乗りこえる車があって、はじめて目的地に到達するように、正しい教えと正しい信仰によって、人生の苦労や努力が実るのです。
ですから、忙しい人ほど人生の根本の指針として正しい信仰が必要であることを知るべきです。
9 信仰は老人がするものではないのか
「信仰は年寄りがしていればよい」という意見には、信仰に対する無理解と老人に対する偏見が潜んでいるように思われます。
正しい信仰が人生にもたらす作用はさまざまなものがあります。その中の主なものを挙げてみますと、
- 正しい教えを信ずることによって、考え方や人生観が広く正しいものになる。
- 日々の信仰修行によって身心ともに健全な人間として鍛錬される。
- 精進心すなわちこつこつとたゆまぬ努力を積み重ねる心が培われる。
- 敬虔な心・感謝の心・思いやりの心が養われる。
- 日常生活が信仰の功徳力によって仏天に加護される。
などがあります。
このように人生に大きな意義をもつ信仰が、若い人と無縁であるというのはまったく的はずれな暴論というべきです。
むしろ、「鉄は熱いうちに鍛えよ」という言葉どおりに、人生の基礎となり土台となる若い時こそ、正しい宗教を信仰し修練を積むべきなのです。
ビルを建てる場合でも地中深く打ち込まれた盤石な基礎があれば、その上に立派な高層建築を建てても微動だもしません。これと同じように、若い時に目先の欲得や表面的な楽しみに流されることなく、信仰を根本としてしっかりした人生観と人間性を養うことが将来の大きな力になるのです。
また本人がいかにまじめな努力家でも、いつ不慮の災難にまき込まれるかわかりません。一瞬の事故によって一生を台なしにするような事件がいたるところで起きていることを考えると、やはり仏天の大きな力によって日々守られることも、若い人が充実した生活を築くための大切な要件といえましょう。
たしかに低級思想や迷信に走る宗教、あるいは形骸化した既成宗教の姿に対して、若い人だけでなくすべての人々が失望し、むしろそれらを忌避しているというのが現実です。
しかし真実の生きた宗教は、老若男女、人種などの差別なく、すべての人に生きる力を与え、何ものにも崩れない安穏にして自由な境涯を確立させるところに、その目的があるのです。
また、道を志すことに早いということはありません。青年・壮年・熟年を問わず正法に帰依することは幸福の絶対条件ですが、健全な苗木が大木・名木に成長していくように、伸びゆく青年時代に信仰に励むならば、それだけ人生の大きな力となり、強固な礎となるのです。
現在、日蓮正宗には、多くの青年が自己の確立と社会平和のために情熱をもって信心修行に励んでいます。
10 信仰をしていても悪い人がいるのではないか
信仰していない人は、よく「信仰をしていても、こんなに悪い人がいるから信仰する気にならない」と言います。
「悪い人」といっても、悪い考えに染まった人、悪い癖を持った人、自分で気付かずに悪業を犯す人などさまざまです。
釈尊は、現代の世相を「五濁悪世」と予言しました。五濁とは①劫濁(社会・環境に悪い現象が起きる)、②煩悩濁(瞋りや貪りなどの悪心にとらわれた本能の迷い)、③衆生濁(人間そのものの濁り)、④見濁(思想や考えの乱れ)、⑤命濁(生命自体の濁り、人命軽視など)をいいます。
たしかに現代社会は科学技術の発展とは逆に、人間性は歪曲され、貧困になっていますし、社会全体の混迷と汚染はますます深刻になっています。まさしく釈尊の予言どおりの世相になっています。
社会も時代も、そして個々の人間まで汚染されつつある現代は、悪で充満しているといっても過言ではありません。そのような中で、健全な人生を築くために発心して信仰の道に入っても、始めのうちは過去からの宿習や因縁によって、また縁にふれて悪心を起こしたり、他人に迷惑をかける人もいるかもしれません。
また世間で罪を犯した人が、最後の更正のよりどころとして信仰を持ち、努力することも宗教の世界なればこそ当然であります。
このような場合でも、正しい宗教によって信仰を実践していくうちに、悪い性を断ち切り、煩悩を浄化し、六根清浄になっていくのです。日蓮大聖人は信心の功徳について、
「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり」
(御義口伝・御書1775㌻)
と仰せです、すなわち正しい教えである南無妙法蓮華経を信じ唱える者は、必ず六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のすべてが清浄な働きになると教えているのです。
信仰の正当性を知るために大切なことは、それを信ずる人の姿を見て判断するのではなく、信仰の対象である本尊や教義の正邪をもってその価値を決しなければならないのです。釈尊は、
「法に依りて人に依らざれ、義に依りて語に依らざれ」
(涅槃経)
と説いています。
信仰をしている人を部分的な表面や風評をもって批判することは誰にでもできるでしょう。しかし批判者にはそれ以上に得るものはなにもないのです。むしろ、正法の信者を誹謗するという大きな罪を作っているかもしれません。
一方、正しい信仰を根本として、過去の悪業や弱い自分と闘いながら仏道に精進している人は、当初は恥しい思いをするかもしれませんが、将来必ず目標に到達し、真実の幸福境涯を築き、周囲の信頼と尊敬を集めることができるのです。
もし万が一にも、正しい信仰を持ちながら平気で悪事をなすならば、その人は仏法に疵をつける罪によって仏罰を受けるでしょう。しかしそれもまた、その人を善導するための仏の慈悲のあらわれであり、いかなる人も必ず正しい人生を歩むようになるのです。
11 宗教は狂信、盲信のすすめではないか
ここでいう「狂信」とは、理性を失い我を忘れて狂ったように信ずることであり、「盲信」とは、ひとつの信仰に埋没し、わけもわからずむやみに信ずることです。
この狂信・盲信について三つの点から考えてみましょう。
まずはじめに数多い宗教、信仰のなかには明らかに教義として狂信・盲信をすすめているものがあります。たとえば霊媒信仰や修験道、あるいは踊る宗教などは忘我の境地に至ることが救いであり、理想であると説いています。また、キリスト教やイスラム教のなかには自宗に執着するあまり、教義の正邪ではなく、暴力やテロに訴える場合もあり、これも狂信のひとつといえましょう。
さらに念仏宗などは「他の教典はすべて捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と、他の教典を読むことを禁じ、禅宗なども不立文字・只管打坐と称して文字による教義理解を否定し、他宗の善悪を知ることさえ、きらいます。
また、密教やキリスト教のなかには、社会との交渉を断って、山奥や閉鎖集団の中で生きることを至上の目的とするものもあります。
このように、他の宗派や社会と隔絶することを説く宗教を信ずるならば、他の宗教と比較することもできず、独善的な信仰となります。
日蓮大聖人は、
「迷妄の法に著するが故に本心を失ふなり」
(御講聞書・御書1858㌻)
と説かれ、誤った教えによって本心たる理性が失われ、狂信になると教えています。
また、
「若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし怱いで対治を加へよ」
(立正安国論・御書248㌻)
と仰せられ、社会の平和を実現させるためには、正法と邪法とをよくよく糾明して対応救治しなければならないと説かれています。
第二には、信仰修行の上での狂信・盲信についていえば、日蓮正宗の信仰修行は理性を失う狂信でもなく、わけもなく信ずる盲信でもありません。
大聖人は、
「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず」
(諸法実相抄・御書668㌻)
と、修行とともに教学、すなわち教義の研鑽が大切であると説かれています。
また、
「酔とは不信なり、覚とは信なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る時無明の酒醒めたり」
(御義口伝・御書1747㌻)
と仰せられ、真実の正法を信じ唱題する時、無明という迷いの霧が晴れて真理に目覚めるのであると教示されています。
第三には、現実の例証をもっていえば、大聖人は、
「仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か。」
(四恩抄・御書267㌻)
と、信仰者は人間の道として父母・衆生・国土、そして三宝の四つの大恩を常に感じ、報いるように教えられています。また、職場での心得として、
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」
(檀越某御返事・御書1220㌻)
と諭されています。このように常識をもち、社会人としての勤めに励むことが信仰者の道であると教えています。
日蓮大聖人の願いとするところは、正しい仏法によって個人も社会もともに健全に発展し幸福境涯を築くことであり、日蓮正宗を信仰する者は邪法に迷う人々を目覚めさせるために正邪を説き、自らの姿をもって信仰の尊さを示しているのです。
しかも正法を信ずるならば仏力・法力によって、おのずと円満な人格と福徳が備わり、社会人としても多くの人々の信頼と尊敬を受けていることはまぎれもない事実なのです。
もしあなたが、信仰者の真剣な礼拝唱題の姿をとらえて、それを狂信だ盲信だと非難するならばそれは妄断であり、誤りです。なぜならばそれはあたかも、職人が一心不乱に仕事に打ち込み、運動会で子供が一所懸命に走っているところだけをとらえて、「気違いだ」「狂っている」と、はやしたてているようなものだからです。
12 現在げんざいは信仰するほどの悩みはない、いまの生活で満足だ
「信仰するほどの悩みはない」という言葉は、言い換えると「悩みのない人は信仰の必要がない」ということであり、信仰を正しく理解していないようです。
仏様がこの世に出られた目的は、仏知見すなわちいかなるものにも壊れることのない清浄で自在の境地と、深く正しい智慧を、衆生に対して開き示し、悟り入らしめるためであると法華経に説かれています。
そして法華経宝塔品には、
「此の経を読み持たんは是れ真の仏子淳善の地に住するなり」
(開結355㌻)
と説かれ、正しい仏法に帰依する者は真実の仏の子であり、清浄で安穏な境地に住することができると教えています。
日蓮大聖人も、
「法華経は現世安隠・後生善処の御経なり」
(弥源太殿御返事・御書723㌻)
と仰せられているように、安穏な境地とは現在ばかりでなく、未来にわたるものでなければなりません。楽しいはずの家族旅行が一瞬にして悲惨な事故にあったり、順調に出世コースを歩んできた人が一時の迷いから人生の破滅を招いたりすることはしばしば耳にすることです。いまが幸せだからそれでよいという人は、よほど自分だけの世界に閉じ込っているか、直面している問題や障壁を認識できない人といわざるをえません。
私たちの周囲を見ても、世界では毎年何百万人もの戦争による死傷者が出ており、私たちが戦乱の渦中に巻き込まれないという保障はどこにもありません。また、家族や親戚の悩みはまったくないのでしょうか。子供の教育問題や親または自分の老後の問題などを考えても、「今の生活で満足だ」とのんびりしているわけにはいかないと思います。
大聖人は、
「賢人は安きに居て危ふきを欲ひ、佞人は危ふきに居て安きを欲ふ」
(富木殿御書・御書1168㌻)
と仰せられ、賢人は安穏な時でも常に危険に心を砕いているが、考えが浅くへつらうことばかり考えている人は、危険な状態になっても安逸をむさぼろうとするだけであると説かれています。
今が幸せだということは、譬えていえば平坦な舗装道路をなんの苦労もなく歩いているようなものです。しかし長い人生には険しい登り坂もあれば泥沼の道もあります。その時にはより強い体力と精神力、そして適正な智慧がなければなりません。難所にきてから「自分は平坦な道しか歩いたことがない」という人はむしろ不幸な人というべきです。どんな険難悪路に遭遇しても、それを楽しみながら悠々と乗り越えてゆく力を持つ人こそ真に幸せな人というべきでしょう。
強い生命力と深く正しい智慧は、真実の仏法に帰依して信心修行を積まなければ決して開発されるものではありません。
どうか目先の世界や自己満足に閉じこもることなく、一日も早く正しい仏法を信じ、真に賢い人間となり、幸福な人生を築いて下さい。
13 利益や罰はその人の心の持ち方によるのであって、客観的にあるものではない
人間の幸福と不幸を、線を引いて区分することはできません。まったく同じ条件のなかにあって、ある人は自分は不幸だと思う人もいれば、別な人は自分は幸福だと思う場合もあります。ひとつの結果を利益とみるか、罰とみるかはその人の心や考え方によって決定されるといっても間違いではありません。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉がありますが、どこまで心頭を滅却(無念無想の境地)できるか、どの程度の火熱を涼しく感ずるかという限界点は個人差がありましょう。しかし普通の人で、真っ赤に焼けた鉄にふれても何も感じない人はいません。また食事をとらないで一日二日は我慢できても、十日も二十日も絶食して平常と変わらない人はいません。どんな人でも体に激痛を感ずれば心も落着かなくなるのは当然です。
これらの事実から見ても、現実の結果や物事の評価は人間の心によって決定されるものですが、心はまた現実の物質世界に支えられていることがわかるでしょう。
これらの原理を仏法では「色心不二」といって物質や肉体(色)と精神(心)はたがいに離れることなく一体であると説いています。
この色心不二の生命に根本的な影響を与えるものが宗教です。
日蓮大聖人の教えによりますと、妙法を信受する者について、
「身は是安全にして、心は是禅定ならん」
(立正安国論・御書250㌻)
と仰せられ、心に禅定を得るばかりでなく、身体も安穏になると説かれています。
また、正法に背く者について、経文を引用して、
「人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐けず、疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん」
(立正安国論・御書249㌻)
と説かれています。この文の意味は、
〝正法を信ぜず、信仰を壊る者は福徳が尽きて、孝養心のある子供に恵まれず、親子・兄弟・親戚が仲たがいをしていがみあう。天候不順で作物が実らず、悪病が流行し、悪い思想もはやって生活をおびやかす。奇怪な事件やわざわいが次々に起こり、死後は苦しみの地獄、飢渇の餓鬼、互いに殺し合う畜生などの世界に落ちる。その後もし人間に再び生まれてくるならば兵隊として戦場にかり出されたり、奴隷となって酷使されるであろう〟
というのです。
これらの教えは因果の道理、すなわち善因を積めば善果を得、悪因には悪果を生じるという当然の姿を記したものであり、正法を信受する者には大利益が、不信毀謗の者には厳然とした罪が、身心両面に現れることを説いているのです。
真実の幸福と安穏な境涯は、凡俗の私たちが心でどのように受けとめるか、あるいは一時的な感情でどのように考えるか、というところにあるのではなく、正しい仏法をいかに余念なく信受し、行じうるかにかかっていることを知るべきでしょう。
14 信仰をしなくても立派な人がいるではないか
まず「立派な人」とはどういう人を指すのでしょうか。
一般に「立派な人」という場合は、社会的に指導的地位にある人、名誉のある人、財をなした人、学識豊かな人、福祉活動や救済事業に貢献する人、社会的な悪と闘う人などが挙げられます。
さらに広くいえば、名誉や地位はなくても毎日を正直にまじめに努力しながら過している人々も〝立派な人〟といえるのではないでしょうか。
こうしてみると、〝立派な人〟といっても一定の規準があるわけではなく、他人を評価する時に主観的見地から用いる漠然とした言葉にすぎないことがおわかりでしょう。
では信仰は立派な人間になるためにするのでしょうか。それとも立派な人間になることとは違うところに目的があるのでしょうか。
結論からいえば、正しい信仰とは、成仏という人間にとって最高究極の境涯に到達することを大目的として修行精進することであり、その仏道を修行することによって、ひとりひとりが人間性を開発し、錬磨し、身に福徳を具えていきますので、その過程の中でおのずと〝立派な人間〟が培かわれていくのです。日蓮大聖人は、
「されば持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」
(持妙法華問答抄・御書298㌻)
と仰せられ、信ずる法が正しいゆえに人も立派になるのであると説かれています。
ですから正しい信仰を持たずに、単に眼前の名誉や地位、あるいは財産、学歴などをもって、それで仏の御意に叶う人生になるわけではありませんし、そのような表面的な要件が備わっているからといっても真実の絶対的幸福が得られるわけではありません。
大聖人は、賢人について、
「賢人は八風と申して八つのかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり」
(四条金吾殿御返事・御書1117㌻)
と仰せです。財産(利)や名誉(誉)、地位(称)、悦楽(楽)などによって喜んだり、落胆したりすることは世の常ですが、これらは世間の一時的な八風であって、この八風に侵されない賢人になるためには、より高い理想と教え、すなわち身心に強い信仰を体して仏道精進を志す以外にないと示唆されています。
この八風に侵されない賢人こそ〝立派な人〟というべきではないでしょうか。そのためには生命の奥底から浄化し活力を与える正しい仏法をもつべきなのです。
大聖人は、
「地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣いて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし」
(新池御書・御書1457㌻)
と戒められています。
15 信仰はなぜ必要なのか
一般に信仰とは、お年寄りが一種の精神修養や先祖を敬いつつ、なごやかな楽しみの場を持つために、お寺へ参詣し、時には団体旅行をすることぐらいの認識しか持ち合わせていない人が多いようです。
あるいはまた困った時に、神仏の加護を求めて参詣し、手を合わせ、願をかけ、守り札などを大事にすることが、信仰だと思っている人もあります。
しかし、正しい宗教を信仰する目的は、一人ひとりの人間の生命の救済、つまり、生・老・病・死の四苦や、経済的な苦しみや対人関係の悩みなどを含む、人のいかなる苦悩にも打ち勝つ活力を与え、すべての人々に真実の幸福を築かせ、尊い人生を全うするための生き方を教えるところにあります。
したがって、正しい宗教の持つ働きは、単なる精神修養や気安めではないのです。
正しい信仰は、何よりも人間の全生命の問題と、その生き方、人の幸・不幸にかかわる、実に重大な意義と働きと大きな価値を持っているのだということを知ってください。
数ある宗教の中にあって、一時の気安めや現実からの逃避ではなく、真に一切の人間の苦悩を喜びに変え、大難を乗り越えて、煩悩を菩提へ、生死を涅槃へ、裟婆の忍土を寂光の楽土へと転換させうる仏法こそ、日蓮大聖人の教えなのです。
では、正しい信仰に、どのような功徳がそなわるかといいますと、
- 世界中の一切の人々を、真に幸せな即身成仏の境界に導くことができる。
- 強盛な信仰を通して、御本尊に託する願いや希望を成就し、また、悩みや苦しみに打ち勝つ金剛心を育てることができる。
- 御本尊にそなわる題目の功徳によって、父母を救い、先祖代々の人々を成仏させ、また、未来の子孫をも救済する福徳を得ることができる。
などがあり、そのほかにも正しい信仰の功徳は数多くあります。
日蓮大聖人は、妙法を信受する功徳について、
「南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし」
(聖愚問答抄・御書406㌻)
と教えられています。